日本の歴史

紫式部と清少納言のエピソードとは?平安の宮中ライバル

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こんにちは!歴史の勉強をしてみたいミヨピンでーす。今日は西暦1010年平安時代にさかのぼって女流作家であった紫式部、清少納言のことを深掘りしてみたいと思います。物知り博士のフー君と一緒に調べます。
ミヨピン
フー君
ミヨピン、こんにちは!今回はハードルが高いですね!それではよろしくお願いします。


平安時代の女流作家

紫式部のこと教えてください。
ミヨピン

紫式部のプロフィール

 

フー君
紫式部は本当のところ本当の名前や生年月日もわからないのですよ。

970年頃 父は藤原為時という、越前国(福井県)越後(新潟県)の国司を務めた人で、和歌や漢文が優れていたそうです。

母は歌人として知られてました。

998年頃 紫式部は藤原宣孝(役人)と結婚します。夫藤原宣孝とは、親子ほどの年齢差があったそうです。

999年頃 紫式部は娘藤原賢子を生みます。(歌人・大弐三位)

1001年頃 夫藤原宣孝が亡くなります。紫式部はこのころから『源氏物語』を書き始められました。

1005年頃 一条天皇の妃である影子(藤原道長の娘)に仕えはじめます。

1010年頃 『源氏物語』が完成されたとされます。

1012年頃  彰子のもとを去ります。

1014年頃  紫式部は亡くななったと言われてます。

紫式部は彰子の家庭教師になる!

紫式部は若くして未亡人になったのですか?
ミヨピン
フー君
先ほどの年表にもあるように、紫式部は夫に先立たれ娘を育てながら、日記を書いたり、物語を書いたりしていたのです。

36歳の時、藤原道長に頼まれて、娘の彰子の女官として仕えることになったなったのです。まーいわば家庭教師てとこかなー!

なぜ?紫式部がよかったの?
ミヨピン
フー君
なぜ藤原道長が紫式部に白羽の矢を立てたかというと

清少納言が仕えていた定子の父、藤原道隆が亡くなったあとを、弟の藤原道長は自分の娘彰子を一条天皇の中宮にしたのです。

藤原道長は、定子には優れてた清少納言が家庭教師についているように、

自分の娘彰子にもゆたかな教養のある家庭教師を紫式部に白羽の矢をたてたのです。

はやくもライバルバリバリってみえますね!
ミヨピン
フー君
紫式部は昼は中宮彰子の家庭教師にはたらき、夜には『源氏物語』に専念して書いたのです。

紫式部の源氏物語とは?

 

フー君!紫式部といえば源氏物語ですよね!瀬戸内寂聴さんが源氏物語を書かれているのが有名です。ものすごく興味があるんですけど、『源氏物語』をわかりやすく教えてください。
ミヨピン
フー君
紫式部は宮廷におるわけですから、宮廷のできごととか、宮廷の人をモデルにネタは山ほどあるわけですよね。

だからいきいきとした物語がかけたわけなのです

『源氏物語』の魅力ってなんですか?
ミヨピン
フー君
『源氏物語』はとても長ーい小説で、全部で54巻、登場人物が450人以上という大長編小説です。

光源氏(ひかるげんじ)の一生を書きあげたのが『源氏物語』なのです。

宮廷の評判はどうだったのですか?
ミヨピン
フー君
『源氏物語』は、たちまち評判となり、女の人ばかりでなく、男の人までも読みたがったのです。
光源氏(ひかるげんじ)のどいうところがかかれているんのですか?
ミヨピン
フー君
光源氏(ひかるげんじ)は『源氏物語』の主人公にして、宮廷を舞台にして、はなやかにくりひろげられる恋愛物語なのです。
えっ!すごい!興味津々ですね!ミヨピンも読んでみたくなりました
ミヨピン
フー君
続いて宮中のライバル、清少納言をひも解いてみましょう!。


漢字からかな文字へ

フー君
平安時代の中頃には、それまでは中国の文化を取り入れることに夢中であった日本も、日本独自の文化が生まれようとしてました。
えっ!すごいじゃないですか!日本も変革してきたのですね。しかしなぜ?
ミヨピン
フー君
う~ん!なぜだとおもいますか?それはかな文字が発達したからですよ。難しいとする漢字にかわって、かな文字やさしく、かんたんにつかえたのです。女のひとたちによろこばれたのですよ。日記や物語がかかれたのです。
どういうものがあるのですか?
ミヨピン
フー君
「蜻蛉日記」「枕草子」「源氏物語」「更級日記」などなんですが、どれもが女の人がかかれたのです。日本文学の古典ですよね。
いわば平安の女流作家の誕生ですね!
ミヨピン
フー君
そうなのですよ。いよいよ紫式部のライバル清少納言の出番です

清少納言のプロフィール

 

フー君
正確なことはわかっていませんが

966年頃  父は清原元輔(きよはらもとより)歌人で学者です。貴族でも真ん中ぐらいです。

981年頃  陸奥守(むつのかみ)・橘則光(たちばなののりみつ)と15歳の時結婚する。

982年頃  橘則長(たちばなのりなが)を生みます。夫と10年後離婚します。

991年頃  25歳ころ 藤原棟世(ふじはらむねよ)と再婚する。娘子間命婦(こまのみょうぶ)を生みます。

※親子ほど年が離れている。

993年頃  27歳ころ 藤原道隆から「一条天皇に嫁いだ娘・定子の教育係になってほしい」と頼まれ、家庭教師にとなり、8年ほど宮廷の生活をしました。

995年頃  定子の父(藤原道隆)が亡くなりました。道隆の弟(道長)が力を持つようになりました。

道長は自分の娘(彰子)を一条天皇に嫁がせます。

一条天皇には定子と彰子の二人の妃がいることになります。

1000年頃  定子が亡くなります。清少納言は宮中を去ります。34歳ころ

1025年頃  清少納言59歳ころ亡くなったかも!

本当のところ清少納言は記録に残っていないのです。

清少納言の【枕草子】とは?

『春はあけぼの。』と最初にででくるんですよね。
ミヨピン
フー君
そうですね。

【春はあけぼの。やうやう(ようよう)白くなりゆく山ぎは(わ)、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる・・・】

これは最初に出てくる文章ですが、春のあけぼの(夜明け)の様子がよくわかります。

「枕草子は」日本三大随筆の一つ

清少納言の枕草子は日本初随筆だったのですね
ミヨピン
フー君
そうなんですね、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「従然草」と並ぶ日本三大随筆の一つなのです。

 

本当にふたりはライバルだった?

紫式部と清少納言はほんとうにライバル関係だったのですか?
ミヨピン
フー君
紫式部は清少納言より10歳も年下でした。紫式部が中宮彰子に仕えはじめたのは、清少納言が辞職してから7~8年後なので、二人が宮中で会うことはなかったのではないでしょうかといわれてます。

紫式部が清少納言を「紫式部日記」の中で、「自分が人より優れていることを見せびらかすのは、いつかはぼろをだす。やたらと風流ぶってみせても、まるで心がこもっていない」などときびしく批判してます。

紫式部はいつもひかえめにしていて、自分の教養を見せびらかすことはしなかったといわれます。

清少納言はすると、プライドの高い人だったんですかね?(笑)
ミヨピン

まとめ

ミヨピン
今日はフー君!ありがとうございました。

清少納言も紫式部も日本文学を代表する作品を書き上げ、平安時代の女流作家として大きな功績を残されたことでしょう。



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